●小説『仮面ライダー1971—1973』2009年05月20日 23時43分31秒

買って2ヶ月放置していた、小説『仮面ライダー1971—1973』読みました。
新書版にして3冊分が1冊にまとまったこの分厚い本を、2日間で一気に読みました。
全体評価としては、面白かったです。

元々「講談社マガジン・ノベルス・スペシャル」として『誕生1971』『希望1972』の計2巻が刊行されていて、未完の休止状態だったモノを、『流星1973』を新たに追加書き下ろしをして完結させたのが『仮面ライダー1971—1973』になります。
とはいえ自分は「講談社マガジン・ノベルス・スペシャル」を読んでいなかったので、今回全てが初見状態で読みました。

『仮面ライダー1971—1973』は、既存の仮面ライダーストーリーをベースに、作者独自の解釈をふんだんにちりばめ、オリジナルストーリーとして描かれたもの。
その演出方法としては、タイトルに年代が明記されているように、現実の1971年から1973年の時代に則した事件や世相を事細かに織り込みながら、<仮面ライダー>という虚構を、限りなくリアルに描いて行くというスタンス。
そして主人公は本郷猛。
そう、『仮面ライダー1971—1973』は本郷猛の物語なのです。

-----以下ネタバレありの感想になります。
読んでも何とか大丈夫な書き方をしてるつもりですが。
これから読もうと思っている方はとりあえず御注意を-----


<本郷猛の物語>とするために、登場人物の配置に色々なシフトが生じるワケですが、その配置替えもなかなかグッと来る感じにツボを押さえているので、自分としてはOK。
先ずはハヤトの扱いに「え? ソレってどうなの?」と思わせながら、その終着点には納得させられる力がああるのがステキ。
はっきり言って、涙します。
<ショッカー>と<アンチショッカー同盟>の構図も上手く、リアル描こうとすればするほど破綻するであろう<仮面ライダー>のコンセプトである<孤独なヒーロー>の立ち位置を、逆にしっかりと浮き上がらせている。
だって改造人間なんだから、少なくてもメンテナンスをしてくれる<チーム>が必要なワケですよ。
(サポートだってリアルに考えたら<個人>じゃ無理でしょ。規模的に。<組織>レベルは必要)。
だからと言って、じゃぁ<アンチショッカー同盟>の単なる一員になってしまったら、それでは♪独り行く 独り行く仮面ライダー♪にはならないワケで。
<アンチショッカー同盟>と<仮面ライダー>の距離感と、その理由付けが上手いです。
そして何故か意外と生き残る、<アンチショッカー同盟>のコマンド<弐番>の本名。
本名が判った時、その<弐番>のコード名が生きてくるのが上手い。
リアル指向な作品であるから、<仮面ライダー>も「変身!」(ピカー!)という瞬間変身はせずに、石森マンガ版のように仮面を被ってアゴのクラッシャーをガチャリです。
なのに、ちゃんと<変身>という要素と<仮面>という要素をストーリー上、上手く両立させている所がスゴイ。
また敵である<ショッカー幹部>も<大佐><大使><博士>とコードネームを限定使用する事で原作ファンに想像力を膨らまさせ、それを逆手に取った演出もあったりで、なかなか魅せてくれます。
<大佐>の正体はちょっとズルイと思いました(笑)。
アレは小説でしか成り立たない演出方法ですよ。

多少鼻に付いた点を挙げれば、当時をリアルに描こうという方法論が、結局当時の物や事件——例えば<トヨペット・コロナ>だとか<大久保清の連続殺人事件>だとかを列挙する事に寄り掛かり過ぎてる所。
その手の要素をもっと目に付かない感じで自然に読ませてもらえるとよかったような。
とはいえ自分もブログの方に195X年のゲッターロボ小説を書こうとしてるからよくわかるのだが、当時の事をこれほどまでに事細かに調べるのって、スゲー大変なんすよ。
素人の適当小説でもこんなに大変なのに、それを商業ベースで展開するとなるとそりゃもうどれほど大変なコトか。
心中お察し致します。
言葉が自分に返って来るので、ヤタラな事は言えません(笑)。

てなくらい、『誕生1971』と『希望1972』は読み応えありました。
長く続編が刊行されずに、気を揉んだ人が数多く居た作品。という話も頷けます。

-----以下確実にネタバレありの感想になります。
これから読もうと思っている方は読まない方が賢明かと-----


で、書き下ろしされた『流星1973』。
ストーリーはこの第3部で完結します。

名作というものはお話を終わらせるのが何と難しいコトか。
万人が納得行く結末を描く事の難しさ。
例えば新谷かおる氏の『エリア88』。
あの最後の1巻(少年ビッグコミック版)でなんかちょっとガックリ来てしまった感じ。
アレに似た感触を受けてしまいました。
(言い切るにはちょっと違うかな? あ、どちらにしても、それでも好きです『エリア88』)

最後の『流星1973』、本郷は超能力を持った少女たちを助けようとするお話が展開します。
いやね。
SF的壮大さとか、安易に出てしまうじゃないですか。超能力とか神とかをお話のテーマに持って来ると。
せっかくココまでリアル指向で展開していたのに、オチで超能力を持って来ちゃうのかぁ〜。と。
自分の中では『仮面ライダー』って、もっと地に足の付いたお話だと思うんですよね。
リアルな現実の、裏の世界のお話。だと思うんですよ。
この小説は同じリアルでも、<テレビの『仮面ライダー』シリーズの続編をリアルに描いた漫画『仮面ライダーSPIRITS』>とは立ち位置が違うワケです。
(私、『仮面ライダーSPIRITS』、大好きですからね。念のため。
ぶっちゃけこの小説『仮面ライダー1971—1973』より好きです。)
だから、超能力だとか神だとか、ソッチ方向に行って欲しく無かったなぁ。

とはいえ、この超能力モチーフの展開、決して思い付きで用意されたワケでは無く、ちゃんと『誕生1971』から着地点として想定されていた物だとは、読むとわかります。
安易にと言ったのは、超能力や神というテーマで締め括ろうという安易さ。という意味。
や、そういう意味では特に特撮コミカライズ系の石森作品では、序盤の重厚さに比べ、物語の締め方の着想がやたら安易だったりするので(『ロボット刑事』とか『イナズマン』とか、それこそ『仮面ライダー』とか)ある意味とても石森作品的なのかも知れません(笑)。
作者がそこまで狙ってたとしたら、逆に敬服です。
でもな〜、石森作品でサイボーグ対神って話をやりたいなら、『仮面ライダー』じゃ無くて『サイボーグ009』でいいじゃん。と思えてしまうんですよね〜。
そう考えると石川賢的神話世界を描こうとすると全てが『虚無』に行き着いてしまうように、永井豪的神話世界を描こうとすると全て『デビルマン』になってしまうように、石森的神話世界を描こうとすると、全てが『009』になってしまうのかも知れませんね。とか思ったり。

とはいえ(「とはいえ」を「とはいえ」で潰すヒト(笑))、上の文節はもどかしさみたいなモノを書き連ねているだけなので、『流星1973』、そこまで悪くは無いです。
文頭に「全体評価としては、面白かったです。」と書いているのは嘘ではありません。
守ろうとしてる少女たちの瞳から、逆に真の力をもらえるくだりとか、読んでて拳に力が入ります。

正直、今書くのが止まってるゲッター小説の、とても良い参考になりました。
読んで良かったです。
……早くゲッター小説、再開したいんだけどな。しないのかな、オレ。